セルジューク朝はマリク・シャーの没後、遊牧的分割相続の影響もあり分裂がはじまる。イラン高原方面を治めたのが、宗家大セルジューク朝であるが、シリア、イラク、ケルマーン、ルームなどの各セルジューク朝に分立し、各セルジューク朝間およびその内部において抗争が繰り返され、政治的統一は失われてゆく。この間にもテュルク族の流入は続き、セルジューク朝は彼らをアナトリアなど辺境部に送り出しており、これがアナトリアのテュルク化のきっかけとなっている。
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1141年に大セルジューク朝のスルターン・サンジャルがホラーサーン方面でカラキタイに敗れ1157年に亡くなると、大セルジューク朝は決定的な混乱に陥る。このときアラル海東南方に独自勢力を築きつつあったホラズム・シャー朝はテキシュのもとで内紛を克服、イラン高原へと進出し1197年、アッバース朝カリフからイラクからホラーサーンに至る支配権を認められた。アラル海北方出身の遊牧民カンクリ、キプチャクの軍事力を背景にホラズム・シャー朝は次代アラーウッディーン・ムハンマドのもと13世紀初に最盛期を迎えた。しかし1219年、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国軍が侵攻を開始、ホラズム・シャー朝は決定的な敗北を喫し、西方へ移りアゼルバイジャン地方を根拠とするようになるが、1230年前後に周辺勢力と対立に敗れた。
モンゴル帝国下のイラン
モンゴル帝国軍はチンギス・ハーンのもとではホラーサーン中部までの侵攻し、のちにアラーウッディーン・ムハンマドおよびジャラールッディーン追撃のためにアザルバイジャン地方まで進撃した。チンギス在世中にマーワラーアンナフルやヘラート周辺をはじめとするアフガニスタン地域が早くにマフムード・ヤラワチらによって復興が開始され行政組織が整備されたのに対して、ホラーサーン以西は長らく放置されたままであった。1230年になってモンゴル皇帝オゴデイは、イラン高原へ帰還したジャラールッディーンの討伐のためチョルマグン率いるイラン駐留軍(タンマチ)を中央アジアから派遣してイラン中・西部の掌握を確実にし、さらにルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国、アッバース朝、ディヤール・バクル、ジャズィーラ地方の諸政権などに対し牽制をはかった。この時、これらアゼルバイジャン方面軍への兵站を任されていたウルゲンチのバスカーク(ダルガチ)であったチン・テムルをホラーサーンへ入府させ、ホラーサーンおよびマーザンダラーン地方の行政組織を整備させた。これがモンゴル帝国によるいわゆるイラン・ホラーサーン総督府のはじまりである。
これ以降オゴデイ治世時代にホラーサーン総督府はその統括地域をイラーク・アジャミー、ヘラート周辺のアフガニスタン地方、アゼルバイジャン地方へと順次拡大した。1241年にオゴデイが没し第六皇后ドレゲネ・ハトゥンによる摂政時代にはモースル、ディヤールバクル方面まで権限を拡大した。1240年頃にはバイジュ・ノヤン率いるイラン駐留軍はキョセ・タグの戦いなどでルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、グルジア王国などイラン北西部の諸政権を軍事的に屈服させ、1243年にはホラーサーン総督アルグン・アカがアゼルバイジャン地方の州都タブリーズに入府し、イラン全域の統治が可能となった。この間にもルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、モースルのバドルッディーン・ルウルウなどがアルグンを仲介としてモンゴル軍人による誅求をカラコルムのモンゴル帝国中央に訴えるようになった。このアルグンの時代にホラーサーン総督府は、ルーム・セルジューク朝などのムスリム政権だけでなく、グルジア王国やキリキアの小アルメニア王国など、モンゴル帝国に帰順した西方地域の土着王侯と帝国中央への仲介の役割を積極的に果たした。
1251年にモンケがモンゴル帝国の第四代皇帝(カアン)に即位すると、オゴデイ時代の行政区分を引継いで、帝国を燕京を中心とする華北、ビシュバリクを中心とするマーワラーアンナフル・中央アジア、アムダリヤ川からシリア方面までの三つの巨大行政区を定めた。最後のものがアルグン・アカが監督していたイラン・ホラーサーン総督府の区分であり、その担当領域は「アームー(川)の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」と称された。『元史』にみえる「阿母河等処行尚書省」がこれにあたる。
1253年1月、モンケはオノン川河源で開催したクリルタイの決議により、西方のニザール派やアッバース朝などを討滅すべくフレグ率いる本格的な遠征軍をアム川以西の諸国へと派遣した。フレグがイランに入ったのが1256年で、彼はアルグンからホラーサーン総督府の権限を接収、イランに対する行政権の全てを持つことになった。同年アラムートのニザール派を屈服させ、1258年、バグダードに入城、アッバース朝を滅ぼしカリフ位は空位となったのである。1260年にはシリア方面に進出するが、大カアン・モンケの死去により引き返し、大カアン位を巡る争いを見てイランに自立しアゼルバイジャンのタブリーズを中心にイルハン朝を開いた。
イルハン朝においても軍事・政治を行う遊牧民、行政を担うペルシア人という伝統的構造は変わらず、やがてモンゴル人とテュルク系遊牧民の混淆が進み、政権自体もイスラーム化してゆく。
1295年、ガザン・ハンはムスリムとなり、その弟オルジェイトゥ・ムハンマド・フダーバンダの代には、ペルシア文化がイルハン朝のもとさまざまな成果を生み出す。代表的なものに宰相ラシードゥッディーンの『集史』や今日に伝わる多くのミニアチュールを用いた写本、世界遺産ともなっている首都ソルターニーイェなどがある。またイルハン朝の時代は13世紀後半の世界的経済活性期にあたっており、文化的繁栄の背景には大元ウルスを中心とするモンゴル帝国による政治的安定を前提とした交易の活発化・地方特産品の開発を通じた地方産品の増加といった経済的状況があった。ガザンの治世から中央政権による強力な軍政や駅逓制度(ジャムチ)、財政制度が確立・機能されると、やがて農地開拓や商工業など各地で安定的な経済発展が促された。モンゴル王侯や財務官僚、往昔の聖人たちなどの墓廟建築を中心とするワクフによる巨大な寄進複合施設の建設が流行し、これに附随したモスクやマドラサ、バザール、キャラヴァンサライなども各地で建設された。後の時代に同様の寄進複合施設がティムール朝、オスマン朝などでも多数建設されている。
イルハン朝時代は大元ウルスと同じく「歴史叙述の時代」でもある。『世界征服者史』をはじめとして『集史』、『ワッサーフ史』、『選史』といった通史や「世界史」のジャンルの作品がペルシア語で多く執筆され、『ヘラート史記』や『シーラーズの書』、ルーム・セルジューク朝史である『尊厳なる命令』などの地方史も多く書かれた。また韻文学としては『ワッサーフ史』を筆頭にイルハン朝末期の『ガザンの書』や『シャーハンシャーの書』、『チンギスの書』などフェルドウスィーの『王書』に倣った詩文形式による歴史叙述のジャンルが開拓された。『集史』にはじまり『チンギスの書』などテュルク・モンゴル的な族祖伝承を、人祖アーダムに遡るイスラーム世界の伝統的な歴史観に組み込ませた歴史像をもつ作品群も現れ、後世のオスマン朝やティムール朝、サファヴィー朝、さらにジョチ・ウルス系の諸政権への影響は甚だ大きい。
イルハン朝の領域は『集史』において「アームー川の岸辺からミスルの境域まで」と称されたように広大な地域に及んだ。これは丁度サーサーン朝の支配地域とほぼ重なる規模であり、14世紀からこのイルハン朝の支配領域を指して「イランの地」の意味である「イーラーン・ザミーン」という地域的な呼称が登場する。
14世紀後半にはいり、ジョチ・ウルスとマムルーク朝の同盟による南北からの圧力、さらには繰り返される内紛によって衰退していく。1335年、オルジェイトゥの子アブー・サイードが後継者を得ないまま病没するとついに中央政権は瓦解し、各地の諸族が独自にチンギス裔をたてて分立する状況となる。やがて傀儡のハーンも徐々に消えてゆくことになる。これら地方政権で有力だったのはバグダードからアゼルバイジャンにかけての西方にジャライル朝、アナトリア東部からメソポタミア平原北部の黒羊朝および白羊朝、東方には南からシーラーズを中心としたファールスのムザッファル朝、ヘラートのクルト朝、サブサヴァールのサルバダール運動などである。
ティムールの大帝国と東西並立
サマルカンドのウルグベグ・マドラサのイーワーン。ティムール朝下に頂点を極めるイラン・イスラーム建築の精華詳細はティムール朝、白羊朝をそれぞれ参照
14世紀末にこのようなイラン高原を一気に征服したのがティムール朝である。ティムールはテュルク化したモンゴル出身でチャガタイ・ウルスの内紛に乗じて頭角を現した。マーワラーアンナフルのサマルカンドを中心として、瞬く間にイラン高原からシリア、アナトリアに至る大帝国を築きあげた。しかし1405年、ティムールが大明帝国攻撃の途上に没すると内紛が発生、東方では三男シャー・ルフがヘラートを本拠に権力を確立する一方、帝国西半は次々と自立し、アナトリア東部を本拠とするカラ・コユンルー部族連合による黒羊朝(カラ・コユンルー朝)が成立した。シャー・ルフは黒羊朝に対して数度の遠征を行い、宗主権を獲得するものの完全に併呑することはできなかった。1447年、シャー・ルフが没するとティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分立、互いに抗争を繰り返すようになる。この頃、西方でもバーヤンドル部族連合を中心とする白羊朝(アク・コユンルー朝)が成立、1468年前後に黒羊朝を駆逐した。白羊朝のウズン・ハサンはティムール朝を破ってイラン高原東部まで勢力を伸ばすが、1473年、オスマン帝国のメフメト2世に破れ白羊朝の征服活動は停止する。1480年代、ヤアクーブの治世下では比較的安定していた白羊朝もその死後に内紛・分裂に陥った。
ティムール没後のイラン世界も政治的に安定した時代ではなかったが、サマルカンドやヘラートなどでの建築活動や、あるいは宮廷での文学作品を数多く生み出した時代であった。代表的なものにサマルカンドのウルグベグ・マドラサがある。またスーフィー・タリーカの流行も著しかった。ナクシュバンディー教団やニアマトゥッラー教団がその代表的なものである。
白羊朝は1508年、新興のサファヴィー朝に滅ぼされた。東方では北方にジョチ・ウルスの余裔であるウズベクのシャイバーニー朝が成立して南下をはじめ、1501年にサマルカンド政権、1507年にヘラート政権が滅んだ。サマルカンド政権の王子バーブルは再興を試みるも失敗し、アフガニスタンに退いたのちやがてインドにムガル朝を開くことになる。こうして東西分立の時代を終え、16世紀、イラン高原はサファヴィー朝による統一的な歴史を歩み始める。
イスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝
今日のイランでシーア派的イランの黄金期として想起されるとすれば、それはサファヴィー朝である。言語的民族的視点からはハカーマニシュ朝やサーサーン朝、文化的視点からはセルジューク朝の黄金期が想起されるが、なおシーア派的視点を加える時、帝国としての「偉大さ」を想起する候補としてはサファヴィー朝よりほかにないからである。しかし、サファヴィー朝もなお、その起源・性格において前代から引き続くトルコマーン系政権に属していたことは明らかであった。
サファヴィー朝はティムール朝や黒羊朝、白羊朝がイラン高原の覇を競うなかで西北隅アゼルバイジャンのアルダビールから勢力を拡大し、イランを統一した。サファヴィー朝は、もともとは13世紀半ばに確固とした姿をあらわす在地の神秘主義教団であるサファヴィー教団をなす家であった。教団内部の争いなどから、アナトリア東北部からアゼルバイジャンにかけてのトルコマーン系遊牧民との交流を拡大し、彼らの支持を集めるためにサファヴィー教団は非常に神秘的なシーア的言説を用いるようになった。こうしたことからサファヴィー教団は、12のひだ(シーア派12イマームの数)のついた赤い帽子をかぶるトルコマーン系遊牧民、すなわちクズルバシュ(キズィルバーシュ,テュルク語。赤い頭)を背景に政治勢力化してゆく。
1494年、黒羊朝との戦いで命を落とした兄をついだのが14歳のイスマーイール1世である。イスマーイールはキズィルバーシュを率いて1501年、黒羊朝を破ってタブリーズに入ってアゼルバイジャンを手中におさめ、さらに1508年、白羊朝を滅ぼしてメソポタミアもその版図に入れた。イラン世界西部を手中にしたイスマーイールは、東部においてティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝と激突。1510年にマルヴ会戦で衝突し敵君主シャイバーニー・ハーンを討ち取り、イラン高原はサファヴィー朝によって統一されることになった。しかしイラン高原の統一勢力の出現は、アナトリア東部における過激シーア派トルコマーンの存在と叛乱の続発という事態を背景として、西方の大帝国オスマン朝の注意を引いた。1514年8月23日、スルタン・セリム1世率いるオスマン朝軍とイスマーイール1世率いるサファヴィー朝軍は東部アナトリア・チャルディラーンで会戦、オスマン朝軍の火力を備えた組織的歩兵戦力のまえに、サファヴィー朝キズィルバーシュ騎兵戦力は惨敗した。
このときに至るサファヴィー朝の奉じたシーア派は過激シーア派と称せられるようなものであった。それはトルコマーン系遊牧民のシャーマニズムを混淆し、さらにイスマーイールを無謬の地上における神の影、救世主とするようなもので、イスラームの教義を逸脱しかねないものであった。すなわちサファヴィー朝は一種の神秘的熱狂に裏付けられた勢力であったのである。しかしながら、チャルディラーンの敗北は、こうした性格を後退させ、トルコマーン系遊牧民とタージーク系官僚からなる伝統的な体制へと変容してゆく。宗教面でもレバノンやバーレーンなどから高名なシーア派法学者を招致し、王朝のシーア派教義の洗練につとめ、法学的精緻さを高めていった。
1524年にイスマーイール1世が没すると、キズィルバーシュ間の勢力争いによる混乱に陥る。後をついだタフマースプ1世は、その長い治世のはじめの10年こそ傀儡的立場に置かれたが、やがてキズィルバーシュ間の勢力均衡やグルジア系の人々の登用などにより小康状態を導き、度重なるオスマン朝やシャイバーン朝の侵攻を許しつつもよく耐えた。1576年、タフマースプ1世が没すると、再び母后やこれと結びついたキズィルバーシュ勢力によって国政は混乱した。
1587年に即位したアッバース1世はキズィルバーシュ勢力間の争いをおさめるとともに、さらに彼らの勢力を削いで実権を掌握、中興の英祖として名高く「大帝」を冠して呼ばれる。トルコマーン系政権の混乱は、遊牧部族民の半独立傾向と相互の争いから生ずるものであるが、それはサファヴィー朝も例外ではなかった。武力を部族民に依存し、中央直轄の軍事力を欠きやすいトルコマーン=タージーク体制の特徴ともいえる。アッバースは、カフカズ出身(特にグルジア)奴隷からなるグラーム軍団、各部族から引き抜いて編成したコルチ軍団の両騎兵、さらに銃砲兵をペルシア系住民によって編成し、常備直轄兵化、軍事力のキズィルバーシュへの依存を避けた。この改革はサファヴィー朝軍制を一変させるとともに、財政的裏付けのために王領地の増加、直轄化などがおこなわれ、権力構造を著しく変容させた。こうしたことから対外的にも軍事力の組織的運用が可能となり、東にシャイバーン朝からホラーサーン、西にオスマン朝からバグダードを奪還した。
1598年、アッバースは都を北西部カズヴィーンから中部イスファハーンへと遷した。これまでアゼルバイジャンあるいはホラーサーン方面に置かれた首都がイラン高原中央のイスファハーンへと遷されたことは、アッバースによる権力体制の変革を示すものであると同時に、ペルシア湾の重要性の増加を示すものでもあった。アッバース1世の時代、貨幣経済が著しく発展し、絹貿易などによる好景気に沸いた。ムガル朝のもとで安定するインドとの交易も進展し、ホルムズを拠点としたポルトガルをはじめ大航海時代に入ったヨーロッパ諸勢力は競ってアッバースの宮廷に使節を派遣した。アッバースは街道・港湾の整備や治安維持によって交易条件を整えるとともに、保護貿易的姿勢に出て莫大な利益を獲得。さらに1622年にはホルムズをポルトガルから奪って、バンダレ・アッバースを中心とする貿易体制を確立した。文化的にもレザー・アッバースィーの細密画などの写本芸術、あるいはムッラー・サドラーのシーア派哲学などが発達。イランの実質的なシーア化の進展はこの時代のことであった。アッバース1世の時代は、まさにサファヴィー朝の黄金時代であり、40万の人口を擁する新都イスファハーンは「世界の半分」と謳われ、今日世界遺産としてその姿をとどめている。アッバースが没したのは1629年のことであった。
アッバース没後も1660年代ころまでのサフィー1世、アッバース2世の時代ころまではサファヴィー朝はそれなりの安定を保った。1639年にはガスレ・シーリーン条約によってオスマン朝との間の国境線を確定、長く続いた対オスマン戦争に終止符が打たれている。しかし、その後は、宮廷におけるキズィルバーシュ、ペルシア系文官、カフカズ系、さらにハラムのからんだ勢力争いで中央は混乱に陥り、給料の遅配などで叛乱が続発、地方の治安は極度に悪化した。ペルシア湾では海賊が跳梁し、インド産品に優位性を奪われ交易の利益も著しく減少した。このような状況下で物価は乱高下し、サファヴィー朝経済は壊滅状態に陥ってゆく。18世紀に入ることには、アッバース1世以降続けられた地方軍権の削減と首都への過度の兵力集中によって辺境・地方の防衛体制は脆弱化して混乱状態に拍車をかけた。東方から進出したアフガーン民族は、1722年、あっさりと首都イスファハーンに入城し、統一政権としてのサファヴィー朝は滅亡したのである